再び患者となる

 3度目の入院である。最初の入院はまだ横浜に住んでいた40代のころ。初期の膀胱癌と診断を受け大学病院に入院した。内視鏡で膀胱内にできたポリープを除去。検査の結果、良性腫瘍だった。検査結果を知らせにやってきた主治医の先生のことを今でも覚えている。「おかしいな。あのポリープは癌なんだよね」。腕を組んで盛んに首を傾げていた。「先生、癌じゃなかったんだから良かったじゃないですか」「そうなんだけどね。やっぱりおかしいんだよな」。主治医にしてみれば、手術前の内視鏡検査で「これは初期の癌だね」と言っていた手前もあって、素直に「よかったね」とは言えなかったんだろうね。

 2度目の入院は福島に戻り、そらいろデイを立ち上げて3年目の夏のこと。夕方から眩暈と嘔吐で、立っていることができないほどなった。見かねたデイの看護師が119番。利用者である爺さん婆さんの急変で何度も救急車には付き添い乗車したけど、自分が運ばれる立場になったのは初めての経験。病院に到着してからは、脳のMRI、お腹のレントゲン、血液検査と一通りの検査を受けたのはいいが、結果は異状なし。こうなると医療はやることがなくなる。点滴で水分補給をするだけ。立てないので3、4日ほど泊っていきますか?というわけで図らずも入院することになった。原因はわかっているんだよね。毎日、仕事が終わってから畑に行って水やりやら草刈をやっていたのと、2週連続で日曜に安達太良山に登ったこと。疲労と脱水の蓄積による熱中症だった、と勝手に診断している。

 そして今度が3度目の入院となった。二度あることは三度ある。とはよく言ったものです。病名は十二指腸潰瘍による幽門狭窄。食べたものが胃の出口で詰まってしまう。こうなると吐くしかない。こんな症状と20年前から付き合ってきたわけだが、ここ数年でさらに症状が悪化。体重も6キロほど減少。おまけに体力低下に栄養不足。薬でごまかすのも限界だろうというわけで、胃と小腸をつなぐバイパス手術をすることになった。人生初にハラキリか、と思っていたら、腹腔鏡手術だとのこと。なんかあった場合は開腹するとのこと。なんかって何だ。ここまで来たら俎板の鯉。あとは医者に任せるしかない。それにしても入院から2日間、絶食状態。手術後も3日ほどは食べられないとのこと。はあ、腹減った!

 

「逃げる」

 最近になって偶然にであった地域おこし協力隊の女性Nさんのお話し。彼女は神奈川県横浜市生まれ。ドラッグストアなどで働いてきたが、どうにも性に合わないと福島県の地域おこし協力隊に応募し、桑折町にやってきた。目指すのは桃農家。年の頃は30台後半かな。たまたま村の板金屋さんに軽トラの点検に来ていて出会う。ここから話しが「逃げる」ことに展開していく。

 

 ドラッグストアの従業員から農業への転身。チャレンジャーだねと声をかけると、彼女は少しはにかんだように「都会から逃げてきた感じなんです」と答えた。実は自分も同じような思いがある。そらいろデイを立ち上げたことは、表向きは起業だが何を隠そう「都会から逃げ出してきた」。定年となったとたんに正社員から否応なく非常勤社員となり、給料もガクンと減る。この先、非正規の賃労働者として使い捨てられるだけの未来を考えると、不安な思いだけが膨らんだ。そんな思いが、以前から温めていた自分のやりたい介護の場をつくることの原動力になったのだろう。今、振り返れば確かに「都会から逃げ出してきた」のは間違いないが、言葉を換えれば「都市からの撤退」と言いたい。

 

 そんなことで変な意味ではなく、彼女にとても興味がわき、親近感を覚えた。そんな彼女が初めて出会った日から2週間後、ふらっとそらいろデイを訪ねてきた。彼女も私同様に親近感を持ってくれた?のだろう。いろいろと話しているうちに、空き家となっていた隣の家(隣といっても50メートルは離れているが)。その家を買ったという。「なんだお隣さんじゃないか」「そうなんですね」。と彼女も笑顔。50万円で買ったという空き家は天井や床が抜けてすぐには住めないほど痛んでいる。一丁歩の桃畑を借りて、来年から本格的な桃づくりに挑戦する彼女。目標は1千万円の売り上げだそうだ。両親も伊達市に移住したという。家族そろって福島にやってきた彼女の「逃げる」=「撤退」戦をしっかりと見守り応援したい思った。

 

認知症にだけはなりたくない?

記者時代にお世話になった先輩氏からLineがあった。そこには脾臓の動脈瘤が破裂し、のたうち回るほどの痛みを経験したこと。膵炎のため大好きなお酒もたばこも厳禁となったことなどが書いてあった。そして最後に「最近、物忘れが多くなったこと。このまま認知症になってしまうのでは。そう思うとザワっとする」とあった。その文面を読みながら、世間一般では「認知症は病気」というのは常識であり「認知症にはだけはなりたくない」という思いがある。

かつて新聞社のやり手の編集局長、取締役までつとめた先輩氏だが、どうも認知症についての理解は表面的なようだ。そこで以下のように返信した。

 

認知症。多くの人は認知症は病気だと思っていて、認知症にだけはなりたくない、と思っている。でも残念ながら、遅かれ早かれ程度の差はあれ、誰もが認知症になる。だって認知症の原因は老いなんだから。身体機能や循環機能などあらゆるものが衰えていくのに、脳(認知機能)だけが若いままでいる?ないでしょ。 

確かにアルツハイマー病やピック病、レビー小体病など病名のついた認知症もある。脳内部に異質なタンパク質が生成されそれによって認知機能が阻害される、と言われている。レマネカブとかいう薬が保険適用になるらしい。その薬でアルツハイマー病にはならないかもしれないけれど、普通の認知症、つまり生理的な惚けにはなる。自然なことだね。

認知症を近代科学=医学に任せると脳だけしか見ないから。脳をいくら調べても、その人と家族の生活をどう支え維持するのか、という答えは何も出てこない。とにかく介護の仕事を続けて20年になるけど、認知症薬といわれる薬を飲んで治った人をみたことがない。認知症に対して医学はほぼ無力だね。薬漬けにされ心身機能と生活が大きく変化していった年寄りを何人も見てきたから。国もそのあたりのことはわかっているのか、とぼけているのか。最近になって認知症になってもすみ慣れた地域で暮らすことが大切、なんて言い出してる。

惚けて当然!惚けますんでよろしく!

惚けても最後までその人らしく暮らす。そんな地域ができたらいいんだろうね。介護はそれを支える奥深い仕事だと思うよ。

 

これに対して先輩氏からの返信は

「なるほど、この考え、思考、とらえ方をさらに広く周知し多くの人が認識できたら世の中の「形」が変わるかもしれないね」

 

 

小林さんの板書書き

はいこんちょの代表小林敏志さんの板書書き。セミナーが終わって3日も経つのに、消してしまうのが、なんか勿体無くて。

遠くから見ると何だか赤黒青の線画のよう。近くで見ると文字が書いてあるけど、何だかよくわからない😊。雑多なものがごちゃごちゃとある。だけど不思議に統一感というか調和というか温かみというか、無機的な感じがしない。
これ、何かに似ているなぁと考えていたら、はたと思い当たった。そらいろの畑と同じだ! ジャガイモや玉ねぎ、絹さや茎タチ、ナス、トマト、里芋、ズッキーニたちが緑肥の大麦、クローバー、ヘアリーベッチ、そのほかの雑草に紛れてごちゃごちゃになっている。
不耕起栽培、無農薬、無化学肥料、無除草剤。肥料は自然由来の有機発酵肥料のみ。
土壌が持っている本来の自然の営みを大切にしながら野菜も一緒に健康に育つ(はず)。
これって介護もおんなじなんじゃないの。爺さん婆さんの心身という自然に化学物質や機械を使ってコントロールするんじゃなくて、本来の持っているものを引き出し、生活を生き活気にする。
介護と農がなんとなく親和性があるように思えるのは、どっちも土という自然と人という自然に関わるからなんだろうね。
それにしても、この板書書き、しばらく眺めていたら土の中に広がる根っこに見えてきた。
ドブに落ちても根のあるやつは、いつかは蓮の花となる〜。ってこれは男はつらいよのテーマソング2番の歌詞。
ところで、近所の篤農家のおばちゃんがこう断言したました。耕さない? 化生肥料入れない? 草茫茫? そんなんでジャガイモ採れるわけ ねえべした!
さて、どうなることやら。

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しめ縄騒動

   生まれ故郷の伊達崎地区は昭和30年の大合併で桑折町と一緒になった旧伊達崎村である。合併して今年で70年を迎えたこの集落にちょっとした騒動が持ち上がっている。しめ縄騒動である。伊達崎地区の総鎮守は創建1200年となる熊野神社。その大鳥居と拝殿に毎年奉納する大しめ縄が騒動の種だ。

 伊達崎地区には7つの集落=町内会があり、各町内会が7年に一度、回り持ちで年末の28日に熊野様の大鳥居と拝殿に奉納する大しめ縄をつくることになっている。今年は隣の集落である中屋敷町内会が担当となっていた。実は来年のしめ縄奉納の担当となるのが我が吉沼町内会。今年度から町会長となっている手前もあって、参考までに中屋敷町会のしめ縄づくりを見学しようと思っていた矢先、人づてに聞こえてきたのが「中屋敷では大しめ縄を買ったらしい」との噂。「え、買ってもいいの? だったらつくらなくてもいいの?」とちょっと喜んだり、驚いたりと複雑な心境になってしまった。その後、徐々に事の顛末が明らかになる。どうやら中屋敷町内会長の独断で購入したらしいこと。費用は2本でしめて40万円。これを会長の自腹で購入したということ。そして中屋敷町内会では会長個人の寄付という形で大しめ縄を奉納することになったという。

    このしめ縄騒動は、これまで潜在していた集落の課題と現実をある意味浮き彫りにした。それは過疎と少子高齢化により「しめ縄づくりの担い手がいなくなっている」という現実である。今年しめ縄を創れたとしても次回の順番が回ってくる7年後に果たして作り手がいるのだろうか、というなんとも切ない現実である。今から60年前、私が小学生だった頃の祭りはにぎやかだった。笛や太鼓のお囃子が聞こえてくるともう居ても立っても居られない。祖母からもらった100円玉を握りしめワクワクしながら幟のたった神社をめざし、軒を連ねた屋台の売り物に心躍らせたものだった。コロナウイルスの影響もあったが今は屋台の姿も消え、神事のみが行われる寂しいお祭りとなっている。

 しめ縄づくりは大変だ(ともっともらしく言ってはいるが、かくいう私は作ったことがない)と言う。なにせしめ縄のための種もみ、苗づくりから始まる。そして穂が出る前に青刈りし、陰干しした稲わらをさらに叩いて鞣したものを使う。中心にいれる菰を編み、左撒きに編んだ2本の縄を今度は右巻きに撒いてしめ縄に仕上げていく。なんだかよくわからないが大変そう。7年前に経験した前会長も大変なんだよと真顔で話していた。前々回のしめ縄奉納を担当した大畑町内会の会長は「YouTubeをみてつくりましたよ」。ネット検索でつくった! それもすごいな。

   ところで40万円で購入した大しめ縄が奉納された村の鎮守だが、素材がプラスチック製のため10年は持つのだそうだ。そうなると来年のしめ縄奉納はどうなるのか。40万円のしめ縄をはずして、我が町内会の手づくりしめ縄を奉納するのか? いや折角40万もの大金をだしたんだからもったいない。そのまま表と裏を逆にして飾ればいいのでは。10年持ったとしても、そのあとは誰かがまた買うのか?各集落ごろにお金を出しあって買ったらいいべ。いやいや本来、しめ縄は神様に捧げるものだからみんなでつくるべきだ、などなど喧々囂々、侃々諤々、議論噴出中である。かくして、熊野神社の氏子総代20名全員と7集落の町内会長が一堂に会して、今後の対応を協議することと相成りました。はてさてどうなるか。乞うご期待。

 

 

 

いい所まで行った!

実は9月初めに日本財団の助成事業に応募していた。その助成事業の名称は「みらいの福祉施設建築プロジェクト」。地域と福祉の融合がテーマである。全国各地で活動している非営利活動団体に申請を呼びかけていた。当法人の事業目標は、介護をベースにした地域に開かれた生活の場づくりである。まさにドンピシャ。これは応募しない手はない。ということで、急遽、旧知の設計士と構想を練りまとめたのが添付の基本構想図である。

構想期間がわずか1か月と短期間だったことや設計士たちの本拠地が大阪だったこともあり、リアル会議をもつことができたのは2回のみ。あとはweb会議でまとめたため、細部まで詰め切れなかったことは否めない。それほど期待はしていなかったが、なんと1次審査を通過することができたのである。狭き門で知られる助成事業だけに、私も設計士たちも「これは行けるかも」と色めき立った。10月には財団の担当者とのヒヤリオングも行われ、「いい感触」で終わったと勝手に思い、2次審査通過の知らせを待っていたのだが、11月末に「落選」の連絡が届いた。残念。

「もしかしたら」と期待を膨らませた分、「がっかり」したことは確かだが、気持ちもう切り替わっている。12月には設計士たちがはるばるそらいろに来所。ワインを飲みながら事業構想の反省会を開いた。再度、挑戦するかどうかは未定だが、地域の特性と課題の洗い出し、他組織との連携、地域の方々とのコラボなどそらいろ単体では実現できない地域と福祉の未来の姿を描いていきたいと考えている。

 

 

5年ぶりの入浴

 介護の仕事をやっていてよかった。昨日つくづくそう思った。3月からそらいろに来ている男性利用者Mさんが、5年ぶりにお風呂に入ることができたからだ。Mさんは78歳。原因不明の両下肢脱力で立つことはもちろん歩くこともできなくなった。以来、自宅でベッド生活。リハビリ型デイとショートステイを利用してきた。

 そらいろの檜のお風呂は、自立式浴槽というもので麻痺のある方や車椅子の方も普通に入ることができるお風呂だ。これまで障がいを持った多くの老人のお風呂を担当してきた。その経験からいえる入浴可能となる条件が二つある。その一つが本人がお風呂に入りたい、と思うこと。そしてもう一つがわずかでもいいから介助で立位が取れることだ。

 Mさんは下肢脱力により立位も歩行も不可とされてきた。そのためリハビリ型デイでもショートでも車椅子に乗りっぱなし。お風呂もシャワーチェアに2人がかりで持ち上げて移乗。シャワーをかけるだけのお風呂だったという。案の定、そらいろにやってきたMさんは両下肢ブラブラ。端座位が取れない状況だった。

 そんな中で始まったMさんのケア。まずは短い時間でもいいから普通の椅子へ移乗して過ごすこと。利用当初は全く踏ん張ることができないため、前から担ぐような形での移乗介助からスタート。お風呂でも車椅子から洗い台に全介助で移乗して身体を洗い、再び車椅子へ移乗。端座位が充分に取れないため、二人介助での対応となる。

 こうして1か月が過ぎたあたりから、Mさんの両下肢に変化が見られるようになった。両足首を動かすことができるのだ。特に左足は5センチほど上げることもできるようになった。それとあわせて、移乗介助にも変化が出る。テーブルに前腕をついて前屈みになり、いちにのさんで腰を上げ移乗することができるようになったのである。

 「なんだ、できるね」「ほんとだ」。こんなやりとりをしながら4月からは、浴槽に両足を入れてお風呂に入るイメージトレーニングも開始した。

 そして昨日の朝、お迎えに行くと奥様から「お風呂に入ってみたい」って言ってますよ、と嬉しい知らせ。「今日入るよ」「はいってみっか」。こうして5年ぶりに湯船に浸かることができた。「入れた!入れた!よかった」と喜ぶスタッフ。それに対してMさんは黙ってピースサイン。

 たかがお風呂、されどお風呂。肩まで湯に浸かって「あぁ」とため息をもらすのが日本人。心が動けば身体も動く。Mさんの入浴ケアを通して、改めて自分たちが実践している生活ケアの底力を再認識できた。