「家に帰る」

 「家に帰る」。そらいろデイに来ている89歳の爺さん。「舎弟が来るんだ」。「いつくるの?」「これから来るんだ」。そう言って玄関まで1人で歩いていき、靴を履き始める。「ちょっと待ってらんしょ」「今、息子さんに確認するから」「息子なんていいんだ」。そう言って玄関から出ていこうとする。こうなると誰にも止められない。足腰はだいぶ弱ってきているので、100mぐらいは歩けるが、それ以上は無理。車いすと一緒に爺さんの跡を追う。

 世間的には「徘徊」と言った方がピンとくる人が多いだろう。認知症老人が外にでかけて迷子になってしまう。こういった事案が全国で年間1万8千件もあるとのこと。そのうちほとんどの老人が発見、保護され家族のもとに帰っているが、100人ほどの老人は亡くなっている。こうした事案を耳にすると大方の人はこう思う。「わけがわからない認知症からしょうがない」と。

 ところで「徘徊」を辞書で調べると「目的もなくウロウロすること」となっている。確かに勝手に外にでかけて迷子になってしまうわけだから徘徊と言えるのかもしれないが、問題は「目的もなく」である。私の20年余りの介護経験の中で「目的もなく」外に出ていった認知症老人はいない。「実家に帰る」「子供のご飯をつくる」「仕事にいく」などその理由は様々だが、外に出かける理由はちゃんとある。ただしその目的は現実の時間軸からはずれていることが多い。

 あとで息子さんに確認したら「東京に弟がいるけど、年だしもう来れませんよ」とのこと。それもで爺さんにとっては「舎弟を迎える」ことが「帰る」ための理由となる。ただ「舎弟は帰ってはこない」ことを知っている節がある。その証拠に「息子さんがまだ家に帰ってないから」というこちらの言い分も「どうせ嘘だべ」と言わんばかりの表情をする。かくしてお互いに嘘の言い合い、馬鹿しあいになる。結局、ぼけ老人に軍配があがり、家まで付き合う羽目になる。黙々と確信をもって歩く認知症老人の姿を見ているとやはり「徘徊」という言葉は当てはまらないと思う。

介護とお世話の違い

 「お仕事は何をされているんですか」「介護の仕事です」「へー、介護ですか。それは大変ですね」「そうですか?」「だって食事の世話や、お風呂のお世話、なによりお下のお世話でしょ。大変ですよ」「確かにそう言われてみれば、大変なのかも知れませんね。でも特別に大変だと思ったことはないんですよ」「そうなんですか?でもお下の世話はやっぱりいやだな。臭いし!」「みなさんそう言いますね。やってみればわかりますよ。匂いなんて3日で慣れます」「そんなもんなんですか。私にはとてもできないな」「そんなことはないですよ。だって、ほぼ毎日、自分のオシッコとウンコの匂いを嗅いでるじゃないですか。あれと同じです」「それは自分のものだからしょうがないですよ。他人のものとなるとね。下の世話だけはご免こうむりたいですね」

 「さきほどから、お世話、お世話と言っていますが、介護とお世話は違うんですよ」「介護もお世話も同じことだと思っていましたが、何が違うんですか」「行為の結果は同じ事になるのかもしれませんが、中身が違うんです」「ほう」「例えば食事の場面を想定しましょう。介助される方の”食べる”を支えるのが介護です。お世話は”食べさせる”です」「う~む、こういうことですか。介護は能動的でお世話は受動的!」「おお、いい感じです。介助される人の食べる意欲と残っている機能を引き出すのが介護です。お世話は、お世話する人の意欲の方が勝ってしまい、介助される人は受け身になってしまう。食べたくもないのに、口に食べ物を運ばれる。つまり、食べさせられる、ということになるわけです」「わかったような、わからないような」「一言で言えば、主体がどちらにあるのか、です」「主体ですか?」「はい。主体とは、その人そのものの意志、魂の存在ですね。つまり介護される人の主体を引き出すのが介護で、お世話は、お世話する人に主体がある、ということです」

 「主体がどちらにあるのかがそんなに大切なことなんですか?」「はい、とても重要ですね。主体を無視され、抑制され続けると、その人の目は死んだ魚のようになるんです。無表情、無動となり、やがて廃人のようになります」「なるほど。だから、お世話には”余計な”という枕詞がつくんですね」「誰しも”余計なお世話”はうけたくありませんからね」

歴史と文化の町 桑折?

 宮城県との県境に近い福島県伊達郡桑折町という小さな町が私の故郷だ。人口一万人ほど。かつては徳川幕府直轄の半田銀山と奥州街道羽州街道の分岐点として栄えた宿場町だったが、現在は往時の賑わいなど感じるすべもないほどに廃れた通りがあるだけとなった。シャッター通りという言葉があるが、そのシャッターを下ろした建物自体が消滅し、文字通り歯抜け通りとなっている。これは何も桑折町だけではなく、全国各地のローカルの町では当たり前の風景となった。

 そんなふるさとで介護事業を始めたのが4年前のこと。いまでは、毎日、その歯抜け通りとなった商店街に買い出しに行く。その日課の中でどうにも腑に落ちないというか、違和感を感じたものがある。それが通りに建つ街路灯の根元に書かれている「歴史と文化の町 桑折」という言葉だ。町のキャッチフレーズなのだろうと思う。しかもご丁寧に、通りの両側、交互に建てられた街路灯のすべてにこの「歴史と文化の町 桑折」と書かれているのである。

 「歴史と文化の町」と言われても、どこの町や村に行っても、その町や村の風土に根差した歴史と文化はあるわけで、桑折町にしか歴史と文化がないわけではない。隣の国見町にも、梁川町にも、保原町にも、伊達町にも、それぞれの歴史と文化はある。そもそも「歴史と文化」と言われても、一般概念の用語でしかなく、それが桑折町とイコールだと言われても、あまりにも空疎な話だろう。何より、このキャッチフレーズを、鎌倉市京都市奈良市、明日香村の近くで、言えるのか? と言いたくなったのは私だけ?。

 何かを言っているようで、何も言えていない。何も伝わらない言葉がある。政治家の決まり文句である「遺憾である」「スピード感をもってやる」「検討する」「総合的に判断する」などの文言は、聞き飽きたし、ただやってる感を出すだけの言葉だろう。「歴史と文化の町 桑折」も同じに思えてくる。結局、何も言えていない、何も伝わってこない。わが町の歴史と文化とは? もう一度、原点に戻り、魂のこもった言葉を創造することが、地域を見つめなおすことでもある。そこから地域づくりも始まるような気がする。歯抜け状態の旧街道を走るたびに、そう思うんだなあ。

 

妻の一言

 東京から故郷に戻り、築110年の実家を改修して始めたデイサービス。この11月でちょうど3年が経過した。開業当初の3カ月は利用者ゼロ。文字通り閑古鳥が鳴いていた。当時のスタッフたちは口にこそ出さなかったこど「大丈夫だべか」と思っていたのは間違いない。当時の定員は7名。おそらく日本で一番小さなデイサービスだと思う。そんなちっぽけな介護施設が現在もなんとか続いているんだから、世の中捨てたもんじゃない。

 田舎に帰って介護事業を始める。そんな無謀ともいえる願望を抱いたのが今から10年ぐらい前だろうか。介護界のシーラカンス、カリスマともいわれている三好春樹さんにたまたまだ会ったことが始まり。この話をすると長くなるので割愛する。とにかく、三好さんとの出会いが、古民家の実家をベースに、広い庭や畑に田んぼを活用した介護の現場をつくるという夢を描くきっかけになったことは間違いない。

 事業計画や収支予算書を作成し、起業セミナーにも足を運び、着々と夢の実現に向けて準備を進めていた。と言いたいところなのだが、実はそうやっている自分に対して「本当にやるのか、やれるのか」という疑問と不安をぶつけてくるもう一人の自分がいた。そんな葛藤を抱えたまま、いよいよ東京から福島に転居することになる。当然のことながら、妻も一緒に来てくれるのだと思っていたのだが、これが違った。

 「私は行かないわよ」。この一言は効いたな。「え、来ないの」と絶句。「だって、友達もいないし。介護の事務なんてやりたくないし。そもそも貴方がやりたいことをやるんでしょ。だったら自分でやりなさいよ」。妻の言う通りだと思った。妻も一緒に来てくれるという期待は、身勝手な甘えでしかなかった。ということを思い知らされた一言だった。でも、その時からだと思う。「一人でもやる」という覚悟ができたのは。

 あれから丸4年妻とは別居中だ。でも、悪い関係ではない。と思っている。これもありだなと思う。「私は行かないわよ」といった妻も、2年前にコロナに感染したときには、同居の母親の世話に2週間も来てくれたし、この夏の畑仕事と登山で脱水となり入院した時にも来てくれた。覚悟が決まれば腹が座る。還暦を超えてからも起業。結局、妻が背中を押してくれたことになる。

患者となる

 目の焦点がずれはじめるのが眩暈の兆しだった。午後の入浴介助を終えたあたりから、頭がクラクラし始め、やがて天井がグルグルと回りだす。このグルグルが半端ない。目を開けていられないほどだ。そして激しい嘔吐。立っていられなくなり、ベッドに横たわる。スタッフの看護師から「病院に行がんしょ」。素直に従うことにする。ところが、立てない、歩けない。救急車を呼ぶ羽目になった。普段は、爺さん婆さんの救急搬送に付き添っている自分が、初めて患者となって救急車に乗った。不本意ではあるが、どうしようもない。

 どこをどう走ったのかわかならないまま、病院に到着。ストレッチャーから処置ベッドに移乗され、名前は? 住所は? 仕事は? 病歴は? 内服薬は? 家族は? 救急外来の医師から矢継ぎ早の質問に冷静に答える。採血、点滴。そして脳のCTスキャンMRI。胸のレントゲン。病院の検査体制と即データ化できるのはすごいな。結果は特に梗塞、出血等の疾患はなかった。それでも自宅に帰るわけにもいかず、医師の勧めもあり、入院することとした。人生2度目の入院である。

 最初の入院は20年ほど前のことになる。膀胱がんと言われ、腫瘍の摘出手術を受けた。医師の見立てとは反対に腫瘍は良性だったため、10日ほどの入院で無罪放免となった。その当時は介護の仕事とは縁もゆかりもない広報PRの仕事をしていた。なので、病院の生活はこんなものだろうと思っていたが、今回の入院は背景も事情も違う。生活ケアを柱にした介護の仕事はじめて20年ほどになる。「病院には生活がない。だから、病気は治って帰ってくるが、ボケたり、歩けなくなる」。などと日ごろスタッフに言っていることを、改めて実感する機会となった。

 まず、ベッドが小さい。幅が狭いのだ。80センチほどだろうか。寝返りをするにもひと苦労だ。しかも具合が悪いわけだから、上を向いてじっとしているしかない。66歳の自分もたった2日間、寝ていただけで立ち上がる際にフラ~となるほど筋力は低下するようだ。そして食事がまずい。チープなプラスチックの食器に盛られた彩のないおかず。食欲はわいてこないが、腹は減るので、ガツガツ食ってしまう。本能とは正直だ。生きるために食う。まるで家畜だな、と思う。

 そして何より管理体制がすごい。患者は一様にバーコードのついた腕輪をはめられ、血圧、検温、SPO2、点滴、内服など、すべての処置が電子カルテとして一元管理されているのだろう。今時、当たり前なんだろうと思うが、なんだか首輪をつけられたようであまり気分はよくない。たまたま入院した部屋が腎臓内科の大部屋だったため、私以外は、全員、腎不全と糖尿病の合併症の患者さんばかり。毎朝、毎昼、毎夕の血糖値測定、カリウム検査、インスリン注射。管理される患者も大変だが、入れ替わり立ち代わり病室を出入りする看護師。彼女たちもまた管理されているんだろうなと思う。その繰り返しが病院の生活だ。あれしろ、これしろ、あれだめ、これだめ。やはり病院には生活はない。生活とは「主体の発露」だから。

 かくして、入院3日目。医者からは「もう退院してもいいよ」といわれ、今日、明日にも退院しようかと会社のグループラインに情報を流すと、「今週いっぱいは入院していてください」と全員からのコールバック。代表はいなくても平気ですと言われたようで、なんだかちょっと寂しい気もするが、お言葉に甘えてあと1日、2日、生活のない病院でゆっくりするか。 

コーヒーの話

 東京から戻り実家で介護事業を始めて3年になる。最近、朝食の後、ペーパーフィルタードリップでコーヒーを淹れることが楽しみになっている。

 コーヒーが大好きだったというわけではないが、東京にいた時から朝食後はコーヒーを飲むのがルーティンだった。というよりも妻がコーヒーを飲んでいたので、そのついでに自分も飲んでいた。ドリップで淹れることにこだわっていたわけではない。出勤前 の慌ただしい時間だし、カセットを装着してスイッチを押せばホットができるコーヒーfメーカーのお世話になっていた。

 豆にも器具にもこだわりなどなかった自分がドリップでコーヒーを淹れ始めたきっかけは、自宅が仕事場になったため通勤時間がなくなり、ゆっくりと豆を挽きコーヒーを淹れる時間ができたこと。そしてもう一つのきっかけは、妻からプレゼントで送ってもらったコーヒー豆のせいである。ちなみに、妻は東京に住んでいる。別に仲が悪いわけじゃないが(そう思っている)、離れて暮らしている。

 「この豆、おいしいわよ。飲んでみたら」。宅急便で届いた袋からはコーヒー豆のいい香りがしていた。普段、買っているお店のコーヒー豆とは明らかに香り立ちが違う。ミルで挽いている時から、部屋中に香りがひろがった。コーヒーの苦みと酸味と香ばしい香り。久々にうまいと思った。以来、コーヒー豆は妻が教えてくれた東京の焙煎屋からネットで購入している。

 それにしても、コーヒーは飲むまで手間ひまがかかる。お湯を沸かし、豆を挽き、器具を温め、ゆっくりとお湯を注ぎ、蒸らし、湯を注ぐ。準備を始めてから飲み始めるまで時間を計ったら10分が過ぎていた。それでも、朝のコーヒーはやめられない。縁側の籐椅子に座り、庭を眺めたり、本を読んだりしながら飲む。東京での生活ではなかったのんびりとした時間が流れる。豊かな時間といってもいいのかもしれない。コーヒーは不思議とそんな気分にさせてくれる。