患者となる

 目の焦点がずれはじめるのが眩暈の兆しだった。午後の入浴介助を終えたあたりから、頭がクラクラし始め、やがて天井がグルグルと回りだす。このグルグルが半端ない。目を開けていられないほどだ。そして激しい嘔吐。立っていられなくなり、ベッドに横たわる。スタッフの看護師から「病院に行がんしょ」。素直に従うことにする。ところが、立てない、歩けない。救急車を呼ぶ羽目になった。普段は、爺さん婆さんの救急搬送に付き添っている自分が、初めて患者となって救急車に乗った。不本意ではあるが、どうしようもない。

 どこをどう走ったのかわかならないまま、病院に到着。ストレッチャーから処置ベッドに移乗され、名前は? 住所は? 仕事は? 病歴は? 内服薬は? 家族は? 救急外来の医師から矢継ぎ早の質問に冷静に答える。採血、点滴。そして脳のCTスキャンMRI。胸のレントゲン。病院の検査体制と即データ化できるのはすごいな。結果は特に梗塞、出血等の疾患はなかった。それでも自宅に帰るわけにもいかず、医師の勧めもあり、入院することとした。人生2度目の入院である。

 最初の入院は20年ほど前のことになる。膀胱がんと言われ、腫瘍の摘出手術を受けた。医師の見立てとは反対に腫瘍は良性だったため、10日ほどの入院で無罪放免となった。その当時は介護の仕事とは縁もゆかりもない広報PRの仕事をしていた。なので、病院の生活はこんなものだろうと思っていたが、今回の入院は背景も事情も違う。生活ケアを柱にした介護の仕事はじめて20年ほどになる。「病院には生活がない。だから、病気は治って帰ってくるが、ボケたり、歩けなくなる」。などと日ごろスタッフに言っていることを、改めて実感する機会となった。

 まず、ベッドが小さい。幅が狭いのだ。80センチほどだろうか。寝返りをするにもひと苦労だ。しかも具合が悪いわけだから、上を向いてじっとしているしかない。66歳の自分もたった2日間、寝ていただけで立ち上がる際にフラ~となるほど筋力は低下するようだ。そして食事がまずい。チープなプラスチックの食器に盛られた彩のないおかず。食欲はわいてこないが、腹は減るので、ガツガツ食ってしまう。本能とは正直だ。生きるために食う。まるで家畜だな、と思う。

 そして何より管理体制がすごい。患者は一様にバーコードのついた腕輪をはめられ、血圧、検温、SPO2、点滴、内服など、すべての処置が電子カルテとして一元管理されているのだろう。今時、当たり前なんだろうと思うが、なんだか首輪をつけられたようであまり気分はよくない。たまたま入院した部屋が腎臓内科の大部屋だったため、私以外は、全員、腎不全と糖尿病の合併症の患者さんばかり。毎朝、毎昼、毎夕の血糖値測定、カリウム検査、インスリン注射。管理される患者も大変だが、入れ替わり立ち代わり病室を出入りする看護師。彼女たちもまた管理されているんだろうなと思う。その繰り返しが病院の生活だ。あれしろ、これしろ、あれだめ、これだめ。やはり病院には生活はない。生活とは「主体の発露」だから。

 かくして、入院3日目。医者からは「もう退院してもいいよ」といわれ、今日、明日にも退院しようかと会社のグループラインに情報を流すと、「今週いっぱいは入院していてください」と全員からのコールバック。代表はいなくても平気ですと言われたようで、なんだかちょっと寂しい気もするが、お言葉に甘えてあと1日、2日、生活のない病院でゆっくりするか。